文明開化の時代、弱冠14歳にして日本の外交を影で支える通訳官がいた。氏名は槻路亜紀。正真正銘の女性である。彼女の亡き母はかつて胡蝶と呼ばれるほどの傾国の美姫だった。そして彼女もまた胡蝶と称するに価する美貌と、亡き母にはない類い希なる知能を有していた。
母の残した因縁は常に彼女の未来に暗い影を落とし、双子の弟・亜矢を守るために疲弊する体と心をも虫食んできた。
知らず限界が近づいてきた亜紀は熱を出して寝込んでしまう。恋情を抱きながらもそれを表に出さず看病してくれる形だけの許婚・犬次郎に罪悪感を覚える。彼との婚約は、他の求婚を断るための名目にすぎないのだ。優しくされる理由などない。亜紀の揺れる感情に構わず、上司の軍人は執拗な求婚を繰り返し、政略のために部下との婚約をも提案する。それは以前から彼女に懸想している男だった。頷けば楽な道を選べるのに、頷けない。
自分は幸せになってはいけないと、無意識下で心が叫ぶ。
罪滅ぼしは終わっていないのだ。
母のせいで不幸になった人たちへの贖罪は、まだ。
病気の薬を手に入れて、日々の糧を保証して、齢に似合わぬ大金を融通しても亜紀は納得できなかった。母に恋をした男は、母の面影を自分に映し、母の名を呼ぶ。自分の命は仇を討たれるためにあると悟った亜紀は自らの身を凶刃に晒す。これで終わり。微笑を浮かべた亜紀の命を救ったのは犬次郎だった。彼は絶対に亜紀を殺させないと言う。本当に悪いのは亜紀ではなく、彼女の母なのだと。子が親に似て何が悪いのかと。その言葉は亜紀自身にも向けられていた。
どうして過去に縛られねばならないのか。
あまりに率直すぎる台詞に返す言葉はなく、ただ笑いがこみ上げる。自分のしてきたことが、生き方が、馬鹿らしく思えてきたのだ。そして彼女は肩に載せた錘を下ろすことを決断するのだった。
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