――今から遠い昔のことです。この世界には、とてもおそろしい魔女がいました。人々がパンを食べるように、魔女は人を食べたのです。数え切れないほどたくさんの人たちが食べられてしまいました……。
いつどこで、この人食い魔女を巡るおとぎ話を知ったのか分からない。おそらく、記憶も残っていないぐらい幼い頃の話だろうと思うのだけれども、母さんに聞いてもそんな話を聞かせた覚えはないと言う。なら、母さんの目の届かないところで、偶然目にした物語なのだろう。図書館の棚を眺めても、インターネットで調べても出てこなかった。ありふれた話のように思われるのに、ぴたりと当てはまる物語はなかった。それでも、どこかの誰かが書いた童話の一つ、として自分を納得させるしかなかった。母の口から語られるのを聞いた、小学五年生の夏までは。
「あの人も、昔から言っていたの。誰も聞かせた覚えのない、人食い魔女の物語をどこで知ったんだろう、って。あの人だけじゃなくて、あの子も……」
電話越しに誰と話をしていたのかは知らない。でも、母は確かにそう言っていた。沈痛な声の響きは、母は電話の相手に嘘をついているという考えを否定した。
その日を境に、僕にとって人食い魔女の物語は、どこで聞いたか覚えていない少し不気味なだけの童話ではなくなった。まさか、偶然で片づけるわけにはいかないだろう。周りの誰も知らない物語を、会ったこともない親子だけが覚えているなんて。
血は繋がっているかもしれない、でも、あいつとは何の関係もない。今まで、自分のことをそう元気づけていた。間違っているのはみんなで、僕は何も間違っていない。ただ、時間が全てを解決してくれるのだと思っていた。世間が安堂保を――今世紀最大の殺人事件を起こした殺人犯を忘れさえすれば、僕とあいつの縁は消えてしまうのだと。
母の一言により、それまでの僕を支えてきた希望は音を立てて崩れた。希代の殺人鬼の父と僕の間にある、不思議な縁を説明する手段が僕にはなかった。こうして、人食い魔女の物語は、顔も見たことのない父と僕とを繋ぐ、忌まわしい鎖になった。
父との不思議な絆を知ってから三年がたった。人食い魔女の物語は、思いもしなかった人物と中学二年生になった僕を結びつけた。
おとぎ話の真の結末を知る日が、その先に待っているとはそのとき知る由もなかった。
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